エリトリア

エリトリアの歩み

・ エリトリアの地域はいくつかの都市国家から形成されていたが、1500年頃、その中の一つであるベロウ大国が現在のエリトリアに相当する地域を統一。

・ 19世紀に入ると、ベロウ王国は内部分裂から弱体化を招き、オスマン・トルコが既に支配化に治めていたエジプトを使いこの地を支配。

・ 19世紀中頃、オスマン・トルコの崩壊に伴い1865年には支配権が完全にエジプトの手に渡る。

・ だが内陸部への進出に失敗したエジプトの支配力は衰え、かわって商船・貿易の進出を始めていたイタリアがこの地の支配力を内陸にも広め、1890年には現在のエリトリアとなる領土を確定し国境線を明確化するとともに正式に植民地化した

・ 1941年、エリトリアに英国軍が攻め入り、勝利をおさめたことにより、イタリアの第2次大戦敗北に先立って英国の軍事政府が誕生。

・ 1950年国連はエリトリアとエチオピアが連合国家を形成すべきとの決議を行った。この決議では、エリトリアは軍事面ではエチオピアの傘下におからるものの、その他は完全な自治が保証されることとなっていたが、エチオピアはエリトリアの関税自主権を奪い、治安維持兵をおくなど徐々にエリトリアに対する縛りを強化。

・ 1962年エチオピアは一方的にエリトリアの併合を宣言(エチオピアの一州として併合)。エチオピアは政治、経済のみならず、文化教育面での「エチオピア化」を進め、アムハラ語の強要、ティグリニア語文書の抹消を図る。

・ 1961年頃から、ELF(エリトリア解放戦線)−イスラム教徒中心、強行路線−とEPLF(エリトリア人民解放戦線)−キリスト教徒中心、柔軟路線−による独立紛争が始まる。エチオピアの資本主義政策に反対し、マルクス・レーニン主義理念に基づき、ソ連、中国、キューバなどの支援を受けて反エチオピア闘争を繰り広げた。

・ ELF及びEPLFは当時のエチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の政権の打倒を画策していたエチオピア反政府勢力とも共闘し、1974年の革命(帝政資本主義の転覆及びメンギスツ社会主義政権の誕生)に協力。革命の成功によりエリトリアの大部分をエチオピアから奪回することに成功。

・ だが、メンギスツ社会主義政権はソ連から近代的兵器の供与を得てエリトリア最征服を図り、国土のほとんどはエチオピア支配に戻った。この際、ELFは決定的な打撃を被り、以後独立紛争はEPLF主導となる。

・ 1980年代後半、エチオピアのメンギスツ社会主義政権の腐敗、衰退に乗じてゲリラ線による反撃を行い、1988年にはアスマラ付近まで、1990年にはマッサワを奪回。これを受けエチオピア軍は6ヶ月にわたりマッサワ空爆を繰り返し、マッサワの町は壊滅したがEPLFは撤退せずゲリラ線を続けた。

・ 1991年5月24日、30年の戦争を経て、エリトリアはエチオピア軍をエリトリア全土から追い出した。その数日後、今度はエリトリアの助けを得て、エチオピアの反政府勢力EPRDF(エチオピア人民革命民主戦線)が17年に及んだエチオピア共産政権と独裁者メンギスツを倒し、EPRDFによる新政権が誕生。EPLFも共闘した結果、EPLFによるエリトリア暫定政権が認められる

・ 1993年4月、国連選挙監視団の立会いのもと、エリトリア独立の是非を問う国民投票が実施された結果、独立に99.8%の賛成を得て同年5月24日に正式に独立。国際的にエリトリアの独立が承認される。

・ 1993年にエリトリアがエチオピアから独立したあと、両国は親密な政治的、経済的関係を結んできた。しかし97年に貨幣に関する争いが起こる。1997年11月まで、エリトリアはエチオピアのBirrを使ってきた。しかし彼等は新しい彼等独自の貨幣Nakfaを導入し、経済的独立をはかろうとした。エチオピアはそれに対し、あらゆるビジネスで今後ドルもしくは他の強い貨幣を使うことを求めた。 加えて、両国間で国境紛争が勃発

・ エリトリアとエチオピアの紛争は、98年の5月6日、6週間にわたる軍隊の衝突 に至った。
両国の戦闘は6月を最後にしばらく起きなかったが、紛争の終結のメドはまったくたたず、小競り合いは頻発。

・〜99年1月 この紛争の調停にOAU (Organisation of Africa Unity)やアメリカ公使Anthony Lake、ケニア大統領 Daniel arap Moiらが帆走するが難航。国連安全保障理事会、アメリカ大統領などもエチオピアとエリトリアの状況に懸念を表明

・99年2月 戦闘。 この時と98年5月の6週間の戦闘で数十万の兵士が死亡したと伝えられている。

・ 99年6月、エチオピア-エリトリア紛争で新たな戦闘、(西部国境において)。

・それら3つの戦闘以後、大規模な戦闘は収まるが、銃撃戦などの小競り合いやプロパガンダ線が繰り返される。

・この年アフリカでは旱魃がひどくそれに加えて戦争が続いたため、深刻な食糧不足 に陥る。
食糧不足に直面している33カ国の内13カ国はアフリカにあり、特にエチオピアでは800万人に加えエリトリアとの戦争で発生した40万人の食糧事情は危機的状況に。またエリトリアでは戦争と旱魃により59万人が緊急に食糧支援を必要としていると国連は述べている。およそ315,000人のエチオピア人、500,000のエリトリア人が戦争で家を離れた。
(ちなみに、99年12月、日本はアフリカとコソボの難民らに総額41億円相当の食糧援助を決定)

・OAUやアメリカ、EU、国連などが両国の停戦協定締結を試みるがうまくいかな い。
そういった中で2000年2月、7ヵ月戦闘は起こっていなかったが、東部戦線で戦闘勃発

・ 同5月、エチオピアとエリトリアは大規模な戦闘を国境紛争地域で再開、エチオピアがエリトリア領深くに進撃。
エチオピア軍はBarentuを陥落させ、エリトリア人20万人が避難。続いてOm Hajarを占領。Zalambesa を奪回。

・同6月、 エリトリア-エチオピア国境紛争終結へむけての交渉が行われている中、エチオピアが Assab港近郊を爆撃、またAssab近郊で地上戦などすべての戦線で戦闘は継続し、交渉は難航。

・ 同月、エリトリアはエチオピアが要求していた停戦の条件を容認、エリトリアに続きエチオピアも停戦案に合意。

・6月18日、エチオピアとエリトリアは和平協定に調印し、2年間に及んだ国境紛争を終結させることを誓約。

・7月7日、3日間に渡り、ワシントンで行われたエチオピアとエリトリアの技術的事項レベルの交渉が終了。

・8月14日、国連安全保障理事会はエチオピアとエリトリアの停戦協定監視のための大規模な国連平和維持軍の展開の案を承認。

・9月9日エチオピアとエリトリアは、両国の紛争地域への国連平和維持軍の展開が すぐに行われることを求める。
両国首脳は米国務長官オルブライトと個別に会談し、停戦状態からさらに包括的な平和条約締結に進んでゆきたいという意向を表明。
9月15日、国連安全保障理事会は、4200人の平和維持軍がエリトリアとエチオピアの停戦協定の監視のために派遣されることを承認。

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