Nippon Onigiri Peace Corps!

世界に友達を作る文化交流プロジェクト
  日本おにぎり隊 Nippon Onigiri Peace Corps.

テーマはシンプルに“友達をつくろう!”

一歩踏み出す事から見えてくる景色。そこに広がる未知なる土地と人々との出会い。
“知っているモノ”から“自分色のコト”へと世界を変えてゆくのが『おにぎり隊』。

2000年のエリトリア(アフリカ)に始まったプロジェクト、今年もスタートです。


Japan - Turkey
 
2004

国境を越えるキーワード
友と言える国をつくる:『違い』から繋ぐ視点

語り継ぐべき歴史:『トルコ』(1/2)

我々日本人にとって知っておくべき、語り継ぐべき物語があります。
この地球上には幾千年、幾万年も前から数え切れない人と人が織り成してきた物語が満ち溢れています。人と人が出会うということはどういう事でしょうか。人類の歴史を見てみると一つの出会いが凄まじくも奇跡的な確率で起こっている事が分ります。400万年とも500万年とも言われる“ヒト”の歴史。その中で一人の人間がこの世にとどまる時間はせいぜい100年程。この地球の上で今この瞬間とも言える時を共にする約60億もの人々。その人の渦の中で“人と人が出会う”という事はまさに、奇跡としか言い様のない不思議な縁で成り立っているのです。

おにぎり隊の活動も今年で5年目。これまで訪れた国は全て人の縁の繋がりで交流を果たしてきました。
今年、おにぎり隊が赴いた国は『トルコ』。今回は最初から交流地をトルコと決め、その縁を手繰り寄せるようにProjectを進めてまいりました。
これまでは炊き出しでおにぎりを握り、“隊員一人々々が友達をつくる。”というテーマでこの活動を行ってきました。そして隊員それぞれが交流地の方と友達として、その後も交流を続けています。
そんな活動の中、ふと気がついた事がありました。交流地へ我々は“日本人”として赴く訳ですから現地の人たちから見て我々おにぎり隊の隊員がまさに“日本人”そのものとして映っているということです。つまり我々の活動は日本を代表する“日の丸”を背負った文化交流プロジェクトになっているのです。
そこで思った事、それは『“日本という国”にとって“友達といえる国”はあるのだろうか。』というテーマでした。近隣諸国、同盟国、経済圏の国々を見渡してみた時、シンプルに“友”と呼べる国はなかなか思いつきません。そんな時、思わぬ歴史の出来事から日本人として大切にしたい、ある国と深い絆を創った人々の物語を知りました。その国というのが『トルコ』でした。

今から114年前、日本とトルコ両国間の歴史に残る大きな出来事がありました。今ではその出来事は我々日本人の中では遠い記憶の彼方となりつつあります。しかし彼の国トルコでは、我が国日本との間にあったその出来事を今でも大切に親から子へ子から孫へ語り継いでいるのです。
それは数多ある歴史上の事件の中でも特筆すべき、日本人とトルコ人との間で成し得た、名もなき人々の命をかけた大いなる物語でした。

明治23年。台風による暴風雨の中、現在の和歌山県串本町大島にある柏崎灯台の戸を深夜叩く者がいました。戸を開けるとそこには全身衣服がズタズタになった異国の男達が助けを求めてやってきていました。これがコトの始まりでした。
トルコから皇帝特派使節団を乗せたトルコ軍艦 “エルトゥールル号”が我が国との修好の使命を果たし帰国途中、熊野灘で暴風雨に遭い串本町の大島沖合で座礁・遭難したのでした。実際大島に赴きその現場に立ってみました。島の東端、切り立った崖の向こうに座礁したとされる場所の波間には海面から突き出した荒々しい岩肌が多数見えます。この崖を命からがら暴風雨の暗闇の中、船員達は助けを求めに登って来たのです。時は明治、恐らく島の人々にとって外国人を見るのは初めてという人もいたでしょう。嵐の夜、裸で赤ら顔の波にもまれ傷つき血走った目の闖入者に、看守は呆然としたそうです。すぐさま遭難者に手当を施し始めました。言葉が通じない上の混乱状態の中で、『そうだ。万国信号ブックを見せよう。』と見せられた本の中、震える手が押えた国旗でやっとトルコ人であることが分りました。

暴風雨の夜の海に救助しに漕ぎ出してゆく。その事が何を意味するか、それは助ける側の串本の島民も助けを求めるトルコの船員も共に海のプロですから分っていた筈です。にもかかわらず串本の人々は『島の者を全員集めろ!』と総出で夜の荒れた海に救援に繰り出してゆくのです。そして69名もの人を救出、239体もの遺体を引き上げ丁寧に埋葬し、救助した人たちに対して自分達の明日の食料にもこと欠くというのに、ニワトリや卵、サツマイモなど喜んで差し出し、冷え切った身体を温める為女性までも裸になり懸命に肌をこすり合わせ、衣類のない船員には自らの服も提供したそうです。

この事件は明治天皇の耳に入り、日本海軍が持つ当時最新鋭の戦艦:「比叡」と「金剛」の2隻で生存者を送り届ける運びとなりました。
当時の世界は植民地政策真っ只中。遭難船は単なる略奪対象に過ぎず、救助される事は多くなかったそうです。そんな中、大島の漁民の命を賭けた献身的な働きや日本からの生存者の送還。加えて山田寅次郎という青年がこの事件を聞き『何たる事か!残された遺族の方達はさぞ大変だろう。』と立ち上がります。山田は義損金を全国へ遊説して集め、今のお金で一億円ものお金を持ってトルコへ旅立ちます。
会見したオスマン帝国皇帝アブドゥル・ハミド2世は驚き『命がけで救って頂いたのみならず、義損金。これは受け取る訳にはゆかない。』それに対し山田は、『これは私個人のお金ではなく日本人皆の総意です。私も持って帰る訳にはいきません。』と。皇帝は大いに喜び、その義損金で山田に日本学校の設立を希望。山田寅次郎はそれを受けトルコに残り、トルコの陸・海軍の士官に日本語及び日本の精神や文化について教える士官学校の教師になります。後にこの事がトルコの歴史を創る上で大きな意味を持つ事になります。

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